年 | 和暦 | 石狩防風林(全体) | 生振防風林 | 石狩防風林(花川北・南) | 屯田防風林 |
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1868 | 明治1年 | ||||
1869 | 明治2年 | ||||
1870 | 明治3年 | ||||
1871 | 明治4年 | 石狩、札幌、空知の諸郡の原野は出願の上、随意の開墾を許可する。石狩町史(上巻) p.407 | 宮城県遠田郡の移民三戸生振に入地、…。「石狩町史(上巻)」p.407 | 岩手県移民…バンナグロに二十戸移住…。石狩町史(上巻)p.407 | |
1872 | 明治5年 | ||||
1873 | 明治6年 | ||||
1874 | 明治7年 | ||||
1875 | 明治8年 | ||||
1876 | 明治9年 | ||||
1877 | 明治10年 | ||||
1878 | 明治11年 | 11年10月の「森林監護仮条例」では、第2条に、伐採を禁じ、3等林外に置く者次の 如し。…土地の風致を装飾する者 風防 国郡町村の境界を表する者…「都市化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年p.139(注:3等公林 は民願により伐採するもの) | |||
1879 | 明治12年 | ||||
1880 | 明治13年 | ||||
1881 | 明治14年 | ||||
1882 | 明治15年 | ||||
1883 | 明治16年 | ||||
1884 | 明治17年 | ||||
1885 | 明治18年 | ||||
1886 | 明治19年 | 明治十九年…開拓使岩村判官の英断で開削が始まった琴似新川の工事がなかったならば、
屯田はいまも農耕不能の沼地のままだったかも知れない。「屯田90年史」p.215 明治19年には道庁から樹木伐採制限の布達が発せられている。「山林・原野に於て樹木伐採候節は左の諸項に関するものは其の都度事由を具し稟議すべし」 「札幌市近郊国有林(II)防風林」北方林業Vol.51林修 |
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1887 | 明治20年 | 石狩街道と75林班で囲まれている地区は屯田町と称して篠路屯田兵村の跡を今の街区にとどめており、その南の境をなす保安林のそのま た南側は新琴似屯田の跡である。(中略)新琴似兵村は明治20年九州の旧士族を主対象に146戸が召募され、翌年さらに中国地方まで範囲を拡げて75戸を 追募し、当初は220戸の規模であった。「都市化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年p.155 | |||
1888 | 明治21年 | ||||
1889 | 明治22年 | 篠路兵村は明治22年、やはり220戸の規模で、九州・中国などから募集して構成されたのである。「都市化地域防風林の整備調査報告
書」札幌営林局1975年p.155 篠路兵村の兵屋は材料をほとんど付近の森林から伐り出した…屯田に入地した高木ミツヨの話では「兵屋は整然と建っており、回りには大きな木はなかった。練 兵場(現在の屯田小学校付近)にはアカダモの巨木二本が空を圧していた」「屯田九十年史」p.36〜37 |
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1890 | 明治23年 | 明治19年2月から23年8月までの4年有余を費やして、札幌―小樽間・札幌―江別間 等の大小原野・低湿地帯に多くの幹支線排水運河を開掘して土地改良を行い同時に道路を開さく、20年には札幌附近9ヶ所4680余万坪の地質調査を行な い、うち270余万坪を殖民適地として貸付けや払下げを行いなどして、この近傍の開拓が進められていった(中略)明治19年から殖民地選定事業を興し、先 に述べた地質調査なども行ないながら開拓適地の選定を行うと共に、明治23年より殖民地全般の区劃側設を開始した。ここに開拓地は自然的条件からも、区劃 や面積からも、一定した規格によって選ばれることになったのであり、同時に農耕地の間に森林をそのまま残置した防風林帯を設けその維持造成につとめる方針 も新たに採り入れられた。「都市化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年p.138 | 明治二十三年には…新琴似屯田兵の第三中隊長安藤大尉の企画で(中略)安春川の開削が施工された。この川の新設工事は春山某が請負人 だったことから…安春川と命名されたという。「屯田九十年史」p.217 | ||
1891 | 明治24年 | ||||
1892 | 明治25年 | ||||
1893 | 明治26年 | 「防風林」は北海道庁が国有未開地を殖民地として処分するため、樽川、花畔、生振原野 の「殖民区劃測設」を行った時、住民の要望によって設置されたもの。「共生の森」p.47 | 生振原野の区画測定実施のとき、防風林に位置付けられる。(生振筋違防風林、生振基線防風林も同様)「生振村愛知県団体開拓百年史」 p.29 | 石狩国石狩郡花畔村 村民契約証「第一条 本村ハ海辺ニ接近シ海風常ニ荒キヲ以テ農作物ニ及ホス害甚タシ故ニ禁伐林ノ設ケアリ… 右之通相守リ可申若シ條件ニ背クモノハ村民一統交際セサルモノトス…」惣代 山本多蔵、同 金子清一郎、他八十四名の村民。「共生の森」p.48 |
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1894 | 明治27年 | 同二十六年、原野区画を測設し翌二十七年貸付を許可するや、出願して移住する者多し、同年また石川県団隊移民等三十六戸、予定存置を 出願し許可得て先ず二十五戸移住す。「風雲に耐えて 石川県移住百年記念事業協賛会」p.9 | |||
1895 | 明治28年 | 1895年(明治28年)、道庁によって寺尾堀を延長し茨戸まで一直線に北上する現在の下流部が開削された。当時寺尾堀を含むこの新 しい下流部は「琴似新川」とよばれたが、1925年(大正14年)ごろ北6条以東の旧大友堀の下流部が埋め立てられたこともあり、こちらを創成川とするよ うになった。明治時代に創成川下流はしばしば溢れた。「Wikipedia」(創成川より) | |||
1896 | 明治29年 | 29年5月「殖民地選定及区劃施設規定」を定めて(中略)保存林 防風林風致林水源涵
養林等ニ区分シ防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ「都市化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年p.138 「山林原野仮条例」制定 |
花畔村記録「風防林保護規約ニツイテ」村民一統商議之上決定候也。総代人 金子清一郎 記。「共生の森」p.50 | ||
1897 | 明治30年 | 明治30年には「森林法」が施行され、「予定保安林」は告示の上保安林に編入された。 「札幌市近郊国有林(II)防風林」北方林業Vol.51林修 | |||
1898 | 明治31年 | ||||
1899 | 明治32年 | 石狩国石狩郡花畔村「風防林之儀ニ付願」を北海道庁長官に提出。防風林に設定した箇所が部分的に開墾されてしまったり、無立木地も多 く、また村民契約で防風林の伐採を禁止しているにもかかわらず守らない者も出ている。このま丶で居ると天然林の更新はおぼつかないのみか、防風林の役目す ら失われる心配がある。それ故実際を調査して営林方法を法律によって設定してもらいたいという主旨である。「共生の森」p.50〜52 | |||
1900 | 明治33年 | 次テ明治三十三年に至リ益風防林ノ必要ヲ感シ其八月村民又協議シテ風防林守ヲ置キ風防林ノ監督ヲ為サシムルコト丶セリ「風防林保護規 約」第一条〜第八条。「共生の森」p.49 | |||
1901 | 明治34年 | ||||
1902 | 明治35年 | 明治35年の「篠路兵村給輿地配當調」によれば、兵村を取り囲むように、篠路村及び花 畔村に5ヶ所75,416坪の「風防林」がすでに区画されている。ただし、開拓に伴い樹木が伐採されていたので、相当期間、草地や天然更新のヤマグワ、ヤ ナギ類などの森林となっていたようである。「札幌市近郊国有林(II)防風林」北方林業Vol.51林修 | |||
1903 | 明治36年 | ||||
1904 | 明治37年 | ||||
1905 | 明治38年 | ||||
1906 | 明治39年 | ||||
1907 | 明治40年 | 明治40年の「北海道国有林整備綱領」にもみるように、当時の国有林における造林事業 は、既往の荒廃保安林を第一の対象とし順次(中略)北海道に於いて特に国有林における事業として余り造林技術の進んでいなかった大正初期に厖大なしかもヤ チダモという特殊な樹種の見事な人工林造成がなされたことは刮目してよいことであろう。「都市化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年 p.146 | |||
1908 | 明治41年 | ||||
1909 | 明治42年 | 防風林地を道庁から農林省に移管、営林局の所管となった。「屯田90年史」p.197 | このころ篠路兵村土功組合も誕生、水路として新川幹線、分派線計画が練られたが、この水路を耕地を潰さず防風林内に施設することにな り、営林局に陳情した。営林局では無償で土功組合に貸与してくれた。「屯田九十年史」p.197〜198 | ||
1910 | 明治43年 | ||||
1911 | 明治44年 | ||||
1912 | 大正1年 | ||||
1913 | 大正2年 | ||||
1914 | 大正3年 | 大正天皇の即位記念事業として、篠路兵村会が中島橋から第二横道路間、七百二十間(千二百九十六メートル)に七千本のポプラを植え
た。「屯田90年史」p.198 明治二十九年及び大正五年作製の陸地測量部五万分の一地形図に防風林の記載が全くないこと。明治二九年版には現在の防風林のある位置に草地の記号、そして 大正五年版には用水路の記号しか無く、これは単なる記載ミスとは考えにくい。(中略)新琴似北小学校のまとめによると今残っている最も古い防風林づくりの 記録は…七千本のポプラ植樹。これは昭和五十四年の同校実地調査で確認された最多年輪樹群とも一致しており、屯田防風林の発祥の年は、この大正三年とみて よさそうだ。「新琴似百年史」p.704 |
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1915 | 大正4年 | 造田事業の根幹となるものは、何をおいてもまず灌漑溝の築設で、綿密な水源の調査をまって大正四年…着工し、翌五年…完工した。新川 と創成川の両川から取水する幹線灌漑溝は、兵村地域の民有地七〇〇ヘクタールに灌水できるという当時としては偉大なもの(中略)幹線水路は、導水門から茨 戸街道に沿って北上、新琴似村を通過し、屯田防風林を縦断、屯田第二横線に沿って一直線に旧発寒川に致る延長七・六五九キロの大幹線「屯田百年史」 p.167〜173 | |||
1916 | 大正5年 | ||||
1917 | 大正6年 | ||||
1918 | 大正7年 | ||||
1919 | 大正8年 | 現行保安林台帳と旧台帳とに次の記載がみられる。(中略)68〜77林班………大正8 年4月8日 告示第289号(中略)内陸防風林として農耕地の風害防備を目的として拓殖計画にもとづいき指定した。「都市化地域防風林の整備調査報告書」 札幌営林局1975年p.143(注:68〜77林班は石狩・札幌地域の内陸防風林の全てが含まれる) | 農林省告示二八九号で保安林に指定された。「生振村愛知県団体開拓百年史」p.29 | 分派線が網の目のようにはりめぐらされた屯田は、一挙に造田が進み、大正八年(一九一九年)秋には、約六〇〇ヘクタールの美田に黄金 の穂が垂れるようになった。「屯田百年史」p.176 | |
1920 | 大正9年 | ||||
1921 | 大正10年 | 大正10年と11年に保安林に指定され、国有保安林として現在に至っています。「防風
保安林の現状と課題」北方林業Vol.53西田信造 「国有防風林造成事業」が大正10年から発足した。…防風林に対する事業としては大きなものであり、国有防風林の大体の形を確立したものであった。「都市 化地域防風林の整備調査報告書」札幌営林局1975年p.141 |
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1922 | 大正11年 | ||||
1923 | 大正12年 | ||||
1924 | 大正13年 | ||||
1925 | 大正14年 | ||||
1926 | 昭和1年 | 屯田の人口低落傾向は、その後も長く続き、大正十五年(一九二六)ころまで二十年の長い間は七十世帯、五〇〇人前後で推移した。「屯 田九十年史」p.63 | |||
1927 | 昭和2年 | ||||
1928 | 昭和3年 | ||||
1929 | 昭和4年 | ||||
1930 | 昭和5年 | 昭和5年には「花畔土巧組合」ができ、同10年には花畔村では327町歩の田園が造られました。「ふるさと いしかり」1997年石 狩市教育委員会p.126 | |||
1931 | 昭和6年 | 大正7年生振捷水路の工事が始まり…300万円の巨費と二十数名に上る殉職者を出し昭和6年5月に完成しました。「ふるさと いしか り」1997年石狩市教育委員会p.123 | |||
1932 | 昭和7年 | ||||
1933 | 昭和8年 | 北海道庁「耕地防風林造成奨励規定」を設けて造成費の半額補助。高橋英紀「防風 林」「北海道の自然 26号」p.17 | |||
1934 | 昭和9年 | ||||
1935 | 昭和10年 | 昭和十年にポプラ、ドイツトウヒ、ヤチダモなどを植えたが、これが現在の林相を形作る主要樹種である。「新琴似百年史」p.705 | |||
1936 | 昭和11年 | ||||
1937 | 昭和12年 | ||||
1938 | 昭和13年 | 同十三年の大風でポプラがかなりの被害を受けた。「新琴似百年史」p.705 | |||
1939 | 昭和14年 | ||||
1940 | 昭和15年 | ||||
1941 | 昭和16年 | ||||
1942 | 昭和17年 | ||||
1943 | 昭和18年 | ||||
1944 | 昭和19年 | ||||
1945 | 昭和20年 | 敗戦まぎわまで三百人以上の朝鮮半島の人たちが、花川地区の南北に伸びる斜め防風林の 中で戦闘機を隠すための工事をしていた。(中略)「戦争中、公民館生振分室の裏にある基線防風林のところに、木を切って小さな飛行機が二機か三機かくして ありました。他の木におおわれて上空から見えないようにね。筋違防風林の生振五線から南二号のあたりにも飛行機があったねぇ。…」石狩百話p.323〜 324 | 当時新琴似のダイコンの作付面積は百五十〜百六十町(ヘクタール)といわれた。全町耕作面積の九五パーセントを占め、札幌市需要の八 ○パーセントを生産した。「新琴似百年史」p.442 | ||
1946 | 昭和21年 | ||||
1947 | 昭和22年 | 花畔地区では昭和22年に…55ヘクタールが田圃となり、続いて23年には紅葉山揚水組合が発寒川から揚水して25ヘクタール、翌年 南線地区では250ヘクタール、樽川地区では24年から25年にかけて356ヘクタール造田された。「ふるさと いしかり」1997年石狩市教育委員会 p.132 | 昭和二十二年ころ、屯田二番通り以北、四番通りまでの八百二十四間(千四百八十三メートル)の防風林地十二ヘクタールにヤチダモを植 栽した。「屯田90年史」p.200 | ||
1948 | 昭和23年 | 第三横線から第二横道路間にヤチダモ、第三横線から東へ、第一横線から百間(百八十メートル)の区間にはカツラが植えられたが、これ
は春の融雪水で根が浮き、凍上も加わって全滅してしまった。「屯田90年史」p.199 防風林愛護組合は昭和二十三年に秋田営林署長を定年退職して屯田に移り住んだ石川静一が発起人となって地元の農耕者で組織された。「屯田90年史」 p.203 |
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1949 | 昭和24年 | カツラが駄目ならヤチダモで…と改植され、この防風林は全面的にヤチダモ防風林となった。「屯田90年史」p.199 | |||
1950 | 昭和25年 | ||||
1951 | 昭和26年 | 愛護組合長に粟生亨が就任。「屯田90年史」p.205(粟生亨) | |||
1952 | 昭和27年 | ||||
1953 | 昭和28年 | ||||
1954 | 昭和29年 | 戦後の昭和二十九年に森林愛護組合をつくり防風林を守ってきた阿部重利は、「当時、山(防風林をさしていう)には建築材になる立派な タモ木(ヤチダモ)がずいぶんありましたから、盗伐が繰り返されました。それで、みんなが以前のように結束して山を守るようにしなければと思ったわけで す。山の状態は、特に水田化してからは水分が良かったのでしょうか、木は活き活きとしていましたし、山菜などもたくさんありまして、今とは全然違いまし た」「組合を結成してから一番力を入れたのは、火災を出さないことと、盗伐を防ぐことでした。心配だったのは、山菜や木の実を取りに都会からやってくる人 たちです。(中略)ごみを捨てたり、水分が不足してタモ木が枯れるなど、周辺の生育の環境が厳しくなって、以前とは違った難しい問題を抱えています」「石 狩百話」p.92〜93。花畔上森林愛護組合のこと。 | 米軍機が防風林と民有地境界付近に墜落した。(中略)ヤチダモの幼樹二十本が焼失、犠牲となった。「屯田90年史」p.202 同年九月二十六日、洞爺丸台風が屯田地区を襲った。(中略)林地内のポプラ二百五十本が倒れ、林地は足の踏み場もないほどに荒れ、惨憺たる状況を呈してい た。「屯田90年史」p.203(粟生亨) |
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1955 | 昭和30年 | ||||
1956 | 昭和31年 | ||||
1957 | 昭和32年 | ||||
1958 | 昭和33年 | 当時は水田が五八〇ヘクタール、屯田地域のほとんどが造田され、しかも稲作全盛時代だけに、安定した農家も多く、後継者も増えて、人 口回復に大いに役立った。「屯田九十年史」p.64 | |||
1959 | 昭和34年 | 札幌営林局長から琴似防風林森林愛護組合への感謝状「屯田90年史」p.204(注:屯田防風林の愛護組合の名前は琴似防風林森林愛 護組合とある。造林事業と山火警防への協力に対して送られた。) | |||
1960 | 昭和35年 | ||||
1961 | 昭和36年 | ||||
1962 | 昭和37年 | ||||
1963 | 昭和38年 | ||||
1964 | 昭和39年 | 「秋になるとちょうど防風林を境に、屯田側の田は稲穂の金色が、新琴似側の畑は大根の葉っぱの緑色が一面に広がっているんです。それ はきれいだった。私の防風林の原風景ですね」と話すのは、入植三代目にあたる粟生嗣悳(あおうつぐのり)さん。粟生さんによると、昭和三十年代まではその ような風景が見られたという。「新・北区エピソード史」(平成15年3月発行)より | |||
1965 | 昭和40年 | 町内初の大規模住宅団地の造成が翌40年開始されました。この地区はこれ以後通称「新札幌団地」と呼ばれましたが、…「花川南」に改 正されました。「花川」の名称は…明治35年当時の花畔村と樽川村が合併して出来た「花川村」にちなむ名称です。「ふるさと いしかり」1997年石狩市 教育委員会p.137 | |||
1966 | 昭和41年 | ||||
1967 | 昭和42年 | ||||
1968 | 昭和43年 | ||||
1969 | 昭和44年 | ||||
1970 | 昭和45年 | 屯田防風林はシンナー遊びをする青少年の巣になってきたので、屯田青少年育成委、屯田連合町内会、北区役所、札幌営林局がタイアップ して防風林地の公園化を計画、屯田、新琴似防風林育成保存会が結成した。「屯田90年史」p.206(粟生亨) | |||
1971 | 昭和46年 | 花川北地区は、昭和四十六年に北海道住宅供給公社が、人口規模二万三千六百人、六千戸を想定した住宅団地として開発したところであ る。「石狩百話」p.91 | 新琴似北小学校は、四十六年の開校以来、防風林クラブを設けて植物の採集や観察を続け、同校の「防風林の部屋」には長さ六メートルの
防風林の立体模型を作って展示している。「新琴似百年史」p.707 屯田団地完成。 |
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1972 | 昭和47年 | ||||
1973 | 昭和48年 | 新琴似北小学校では、1973(同48)年以来ずっと、六年生の児童たち手作りの巣箱を木々に掛け、環境づくりに取り組んでいる。 「新・北区エピソード史」(2003年) | |||
1974 | 昭和49年 | 「防風林に遊歩道造成を陳情」新琴似屯田緑化推進期成会・新琴似連合町内会 「新聞 新琴似」第56号 この計画では防風林内の雑草を刈り取り林間歩道を設置するとともに、新しくコブシ、エゾヤマザクラ、シラカバ、ナナカマド、イチョウ、モミジ、オンコ、ヒ バなどを補植しようというもので、昭和四十八年整地、四十九年には防風林に隣接する屯田、新琴似の町内会、小中学校父母、校長など約四百人が出動して約三 千本の植樹を行った。「屯田90年史」p.207 |
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1975 | 昭和50年 | 「都市化地域防風林の整備調査報告書」(札幌営林局)昭和50年2月 財団法人 水利 科学研究所(3分冊)調査対象防風林は67〜77及び182林班(注:石狩・札幌地域の防風林全体) | 新琴似・屯田防風林保存育成会を結成し、住民たちの緑のまちづくりに向けての取り組みが始まっていった。そして要望だけではなく、町
内会や小中学校の父兄など地域の人たちが営林署とともに、サクラやシラカバの植樹を行っていった。「新・北区エピソード史」(2003年) 札幌営林局はかねてから札幌市北郊から石狩町の花畔、樽川をはじめ各所に点在する防風林につきどのような管理方法をとるべきかにつき、地元のアンケートを とる一方、武藤憲由北大教授ら学識者に実践調査を依頼していましたが、(中略)国有林第七十五林班は、既に耕地防風林の機能を失ったとし、今後は都市森林 あるいは環境保全林として育成すべきだ…とされています。「新聞 新琴似」第65号 都市森林(環境保全林)に指定替えとなった新琴似―屯田境の防風林のうち、新琴似十二条三丁目裏の屯田日鉱団地と同南町寄りの林木欠落個所約二百メートル に五月十一日午前九時から札幌営林署の手によってサクラ、白樺、ななかまど、紅葉の四種百五十本が両地区の地元関係者約八十名が作業に加わって美しく補植 されました。「新聞 新琴似」第66号 新琴似、屯田境防風林の秋の補植が十月はじめからはじまり、十一月五日で旧用水路を原状復帰した地点まで(新琴似運動公園付近までおよそ一キロメートル) の植えこみを終りました。補植樹種は林内中央に桜、ナナカマド、白樺、ポプラ、イチョウなど、北側道路寄りにイチョウ、サクラ、白樺などのほか各所にどん な樹木が植えこまれているかを示すための混こう林。ほかに赤えぞ松やヨーロッパ赤松、ケヤキ、ニレ、ヤチダモ、アカシヤ、またカツラや栗なども若干植えら れました。樹木が欠落している地域は第二横線から第三横線付近が主でこの地帯には十列からの樹木が植えこまれ=写真=ています。「新聞 新琴似」第72号 |
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1976 | 昭和51年 | さらに整地を続け次々と植樹、一部空地にはラデノクローバーを蒔いて芝生としミニ公園化、地域住民がジンギスカン料理を楽しめるよう に、の願いをこめて、公園化は進み、五十三年春には早くもコブシ、エゾヤマザクラは花をつけ初(ママ)めた。「屯田90年史」p.207(粟生亨) | |||
1977 | 昭和52年 | ||||
1978 | 昭和53年 | 札幌営林署はこの防風林を環境保全林(都市森林)とすることを決め、同時に補植三年計画も打ち出した。「新琴似百年史」p.706〜
707 屯田土地改良区は、七月末の臨時総会で屯田の水田耕作を今年限りでやめることを決めました。「新聞 新琴似」第106号 |
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1979 | 昭和54年 | ||||
1980 | 昭和55年 | 「新聞 新琴似」昭和55年第124号から昭和56年第135号まで「防風林に学ぶ教育」と題して新琴似北小学校が大きなコラムを執
筆。 |
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1981 | 昭和56年 | 防風林両側に遊歩道 今年から4年計画 地域多年の要望実現「新聞 新琴似」昭和56年第138号 昭和50年・55年・56年の大水害。豪雨が続き、茨戸川が決壊。道路や畑も1m以上冠水したところがあり、農作物も大被害を受けた。「屯田物語」 p.153 |
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1982 | 昭和57年 | ||||
1983 | 昭和58年 | ||||
1984 | 昭和59年 | ||||
1985 | 昭和60年 | ||||
1986 | 昭和61年 | 開基100年 新琴似を考える・ まだ生きている・目的・「無用の長物」「有害」論の中で「新聞 新琴似」昭和61年第193号 | |||
1987 | 昭和62年 | ||||
1988 | 昭和63年 | 花川北防風林が、大量に伐採(376本)され大騒ぎになった。(中略)急きょ、「石狩町郷土史研究会々長」が呼びかけ人代表となっ て、三月二十四日に、「防風林問題を考える町民の集い」が開催された。p.39 | 1988年(昭和63年)に札幌市が札幌開基120周年を記念して札幌市民からの公募により「さっぽろ・ふるさと文化百選」を選定、 町並み19ヶ所のひとつとして選ばれる。 | ||
1989 | 平成1年 | 伐採跡地への補完として二〇〇〇本に及ぶ植樹が実施された。「共生の森」p.40 | 第4回定例市議会 小谷俵藏質問「北部平野には,現在,営林局所管の大規模な75林班耕地防風林というのがあり,そのうち,新琴似と 屯田の境に位置する部分については,都市計画街路ポプラ通となっております。この防風林は,単に北部の地域的な緑であるというより,全市的にもきわめて価 値の高い歴史のある緑地であります。この防風林も,市街地の発展によって,本来の耕地防風林としての使命を終えつつある部分が大半でありますが,人工林と はいえ,植栽後70年から80年を経て,野鳥の飛来するすぐれた自然環境を形成しており,ぜひともこの保全と活用を図る必要があると思うのであります。 (中略)先ほど申し述べました防風林は,現在,営林局所管でありますが,市街地内緑地あるいはこれにつながる部分について,今後の管理のあり方など,本市 と営林局の間で積極的協議がなされていると伺っておりますが,どのように話し合いが進展しているのか。また,この防風林をグリーンベルトの線の要素とし て,さらにグリーンベルトと街の中をつなぐルートとしての積極的な活用について検討することができないのか。検討されているとすれば,どのような考えをお 持ちなのか,ご見解をお聞かせ願いたいのであります。」板垣武四市長答弁「第3点目の防風林についてでございますが,この防風林は,将来とも都市環境形成 上,重要な樹林地であるということを考えております。 特に,市街地部分につきましては,樹林の保全を図りながら,地域の方々の憩いと触れ合いの場として 活用することを主眼に,具体的な計画をいま練りつつあるところでございます。今年度中に素案を固めて,営林署との協議を進めてまいりたいと,このように考 えております。さらに,平地部の防風林全体を緑地として活用することにつきましても,グリーンベルト計画を進める中で検討いたしてまいる所存でございま す。以上であります。」 | ||
1990 | 平成2年 | 花川南商店街の代表者から「南防風林の一部開放に関する請願書」が提出される。…北連町が「花川北地区防風林の恒久的保全に関する請 願書」を提出。…「住みよい町づくりを考える会」と「生活クラブ・他五団体」が「南防風林の保存に関する請願書」を提出した。「共生の森」p.41 | 防風林を緑のオアシスに 公園化構想まとまる 豊かな自然生かし「広場」や「森」ふんだんに 昨年の調査でエゾリスが見られた(四地区)。「リスの森」としてエゾリスの好む樹木(ドイツトウヒ、オニグルミなど)の植裁を計画することにしている。 「新聞 新琴似」第244号 |
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1991 | 平成3年 | 「防風林の保全を求める請願・陳情」は何れも採択となり、「南防風林の一部開放を求める請願」は不採択。「共生の森」p.41 | 防風林 環境整備計画進む 平成8年度完成へ 散策路や照明灯設置 市議会で発表「新聞 新琴似」第258号 | ||
1992 | 平成4年 | 花畔上森林愛護組合解散、花川北森林愛護組合設立(組合長 小林行雄)。「共生の森」p.61〜67 | |||
1993 | 平成5年 | 花川北森林愛護組合「共生の森 防風林設置100年記念誌」(発行責任者 小林行雄)発行。 | 小谷俵藏 札幌市議会質問「樹木の成長は,時間的にも10年,20年あるいは50年という長い期間が必要であり,即効性などという手 段はあり得ないことは明らかであります。それゆえに,これまでの失敗の反省や蓄積した豊富な経験から,長期的な視点での緑化推進が図られるべきものであ り,その結果としてすばらしい緑の遺産を後世に引き継ぐべきと考えるものであります。北区には,幸い開拓時代より先人たちが築いた貴重な遺産である屯田防 風保安林があります。都市化の進展が急激に進んだ本市の平地系にあって,幅50メートルから80メートルのまとまった樹林地が延長約8キロメートル,面積 で約31ヘクタールにもわたって存在している姿はとても貴重であり,壮観でもあります。これは単に北区のみにとどまらず,全市的な財産とも言えましょ う。」 | ||
1994 | 平成6年 | ||||
1995 | 平成7年 | 通りゃんせエゾリス君 防風林第二横線に専用橋 「新聞 新琴似」第301号(注:車道の上にワイヤーによる橋を架けた} | |||
1996 | 平成8年 | ||||
1997 | 平成9年 | 通称「斜め防風林」に見られる植物(灌木も含め)ざっと数えただけでも47科117種もあります。これは植物愛好会の阿部義孝さんが 調べた結果で、そのリストを次につけておきます。ここでの代表的な花は、二号線沿いなどで翌目立ちますが、オオバナノエンレイソウで大きな群落がみられま す。…最近、花川南地区では下水道の普及や発寒川の改修で地下水位が低下し湿った場所を好む植物、例えばオオバナノエンレイソウ、ミズバショウ、スミレ類 は減少傾向にあります。これとは対照的に林内には最近とくにツタウルシが増えてきて、かぶれる人もでております。ツタウルシは開けて陽当たりの良い場所を 好みます。増えた原因は、防風林内の下草を定期的に刈っているためで人が必要以上に手を加えたためです。「ふるさと いしかり」1997年、石狩市教育委 員会p.45 | |||
1998 | 平成10年 | 緑溢れるさわやかストリートへ ニュー防風林 ポプラ通り 今春、せせらぎ誕生 たっぷり水と緑と土と(2ページ見開き記事)「新聞
新琴似」第336号 屯田防風林に手づくり郷土賞 自然…歴史にふさわしい整備 建設省認定 「親しめる緑地空間」 安春川に次ぐ栄冠 「新聞 新琴似」第336号 |
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1999 | 平成11年 | ポプラ通り 市「都市景観賞」受賞 街づくりの活動も評価 「新聞 新琴似」第358号(「野生動物との共生を目指した道路と緑地」
というテーマ) |
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2000 | 平成12年 | ||||
2001 | 平成13年 | 現在危険木の処理は1年に10回程度あります。昨年当署では立木約120本を処理しま した。(中略)また、住宅や道路に伸びた枝が屋根や街路灯を覆うなどの問題や「ゴミが捨てられる」「虫がでる」「蜂が巣をつくる」などの苦情や要望は頻繁 に発生しています。二つ目の問題は、民有地と防風林の境界が侵害され、林地が無断で使われる、いわゆる漫用といった管理上の問題です。「防風保安林の現状 と課題」北方林業Vol.53西田信造 | ポプラ通りを大切に 沿線町内会が守る会設立 「新聞 新琴似」第379号 | ||
2002 | 平成14年 | さらに2002(平成14)年には、防風林を囲む住民たちの新しい動きがあった。防風林に隣接する町内会が中心となって「ポプラ通り を守る会」を結成。これは、自然環境を守るためにどうすればよいか、住民たちが自主的に考え、地域に提案していこうというものである。「人とのかかわり合 いの中で防風林は自然体系が変わってきた。自生のセリや水芭蕉、リスの姿も見えなくなった」と、約四十年間新琴似に住み、自身も毎日、防風林を散策すると いうポプラ通りを守る会会長の武田良夫(たけだ よしお)さんは話す。武田さんは、「今までは利用するだけだったが、この地域に残る貴重な自然を残してい くために、自分たちで考え、自分たちの手で取り組まなくてはいけない」と言葉を続ける。「新・北区エピソード史」(2003年) | |||
2003 | 平成15年 | 花川北森林愛護組合「共生の森 第二集」発行。 |
7月12日に樹木勉強会 ポプラ通りを守る会 ホタルの森構想も 新聞 新琴似」第399号 防風林を「いい森」に 樹木医が提言 将来見据え整備を 守る会が学習会 ポプラ通りを守る会(武田良夫会長)は(中略)講師には南幌町在住の樹木医・吉 田憲一さんを招き、住民ら四十人余りが、全国的にも珍しい都市型森林としての屯田防風林が今後どうあるべきかを考えました。「新聞 新琴似」第400号 |
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2004 | 平成16年 | 9月8日、台風により屯田一の二の防風林で、六十歳くらいの男性が倒木(高さ約二十四メートル)の下敷きになり、死亡した。 美しい日本の歩きたくなるみち500選 社団法人日本ウオーキング協会により選定が提案され、国土交通省、NHK、全国地方新聞社連合会、共同通信社の後 援を得て発足した「美しい日本の歩きたくなるみち推薦会議によって発表された。北海道からは15ヶ所、札幌からは唯一屯田防風林のみちが選ばれた。 |
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2005 | 平成17年 | ||||
2006 | 平成18年 | 仮称)屯田・茨戸通 環境影響評価準備書 答申 札幌市環境影響評価審議会 「仮称)屯田・茨戸通に係る事業区域 に存在するヤチダモを主体とする防風林は、景観資 源や先人が植栽した開拓の足跡を示す歴史的資源としてのみならず、札幌市内の西北部に わずかに残された重要な自然環境としての価値が認められ、将来ともその保全が必要であ る。また、ヤチダモ林においては、現在、植物、小動物、昆虫などの多様な動植物が生息、 生育しており、当該地において将来ともそれらの減少を防ぎ保全する措置を講じる必要が ある。従って、仮称)屯田・茨戸通に係る事業は、人々の生活環境の保全に適確に配慮した道 路事業とすることはもちろんのこと、動植物に優しく自然と人々の共存が可能な、自然環 境の保全に十分に配慮した道路が造られることを目指し、進められる必要がある。 ついては以下について配慮されたい。 1 防風林の保全について (1) 新たな伐採によりヤチダモ林の連続性を損なうことに対して、将来的に現在の防風林と同様の環境を形成しうる用地を確保し連続性を補うこと。 (2) ヤチダモ林及びその生態系の保全のためには、新たな伐採を最小限にとどめるべきである。したがって林帯を横断し新設道路に接続する 2 路線については、その拡幅に ついて再検討すること。 (3) 既設の河川横断部において、林帯に枯れが確認されたことから、対象事業により新たに横断する箇所については、その対策を行うこと。 2 動植物の保全について (1) 道路の設置にあたっては、アカネズミなどの地表移動性動物や昆虫が移動できるよう、技術的工夫を施したボックスカルバートの設置などの措置を講じ、地表移 動性動物や昆虫の保全に努めること。 (2) ヤチダモ林には昆虫類も多種生息しており、鳥類の飛来も確認されていることから、道路に設置する街路灯からの照明については、昆虫類や鳥類の保護のため、 できる限 りの対策を実施すること。(以下略)」 |
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2007 | 平成19年 | ||||
2008 | 平成20年 | ||||
2009 | 平成21年 | 石狩浜夢の木プロジェクト主催の講演会「花川南防風林の歴史」講師は、いしかり砂丘の風資料館の工藤義衛学芸員 | |||
2010 | 平成22年 | ||||
2011 | 平成23年 | 山田大邦さん・池田政明さん JR新琴似駅ギャラリーで防風林の写真展。 北区土木部 故損木の伐採を実施 |