その22 2006.7.11

白花フギレオオバキスミレ

 私がフギレオオバキスミレに初めて出会ったのは、この「探訪記 1」の「まずは、なれそめから」にも書きましたが、1989年、道北の黄金山でのことでした。
その当時はオオバキスミレはもちろんスミレ類についてほとんど何も知らないも同然でしたから、黄色いスミレという珍しい宝物でも見つけたような気持ちでおりました。しかし、他に咲いている場所を知っている訳でもなく、二度目の出会いも翌年の同じ黄金山でした。
 明くる1991年5月、私は相変わらずひとりで北の地に向かいました。沢沿いの林道を歩いていました。キクザキイチゲが満開で、キバナイカリソウやエゾイチゲも咲いていました。ヒメギフチョウも舞っていました。そこでフギレオオバキスミレを見つけてしまったのです。黄色い輝きがいっせいに私を見つめていました。その日のフィールドノートには、フギレオオバキスミレ ○ 何という事だ(○は花を見たと言う印)。と書いてあります。花の図鑑などには高山植物と出ているフギレオオバキスミレが平地で咲いていた驚きを表したものでしょう。
 その翌週から6月初めまで毎週場所をかえて沢沿いの林道や山みちを歩きまわりました。そして次々と新しい生育地を見つけることになったのです。(今にして思えば家族4人をほっぽりだして何してたんだろうと思いますが)
 

 そして1991年6月12日のことです。自宅に配達された新聞を開いて、私は目を見張りました。
 「白いキスミレ 道内種にも」
「札幌の小松さんT新発見U」というカラー写真入りの記事です。
「小松さんは、スミレの花咲くこの季節、可憐な花を求めて、野山を歩き回る。花をつける時期は短いので、休日は大忙し。「盗掘や道路の開発が進めば、この群落も危険な状態になる」と気がかりも増えたが、一面の「白い群落」との再会を楽しみにしている。」と結ばれています。白花フギレオオバキスミレが初めて世に出た記事でした。世の中にはすごい人がいるものだと思いました。
 そして自分がこの1ヶ月間に新しく見つけた何ヶ所もの大発見が胸の中で小さく小さくしぼんでゆくのでした。この時から小松皓一という名前が脳の一画に深く刻み込まれました。


 翌年の春、この年が一番夢中になっていた年かも知れません。黄色い群落、白い群落を求めて範囲を今までよりぐんと広げて、道央から道南へも足をのばすことになりました。

 それから10年の時は流れ、頭にもすっかり白いものが目立つようになりました。
世はインターネット時代。黄色いスミレの情報もインターネットからもたらされることが多くなりました。

 2003年、何気なくフギレオオバキスミレでインターネットを検索していて、再び小松皓一という名前を見つけました。
それは次のような文章でした。

「日本は、世界有数のスミレ王国です。亜種や変種を含めると、軽く三百種を越えてしまうのですから、これほどスミレの豊富な国は他には見当たりません。昔から研究者も多く、文献がもっとも充実しているのも日本です。
 私も、蝶に興味を持つ前までは、各地のスミレを探し求めたり、交換や栽培をしていました。日本におけるスミレ研究の第一人者は浜栄助氏で、学校の先生をやられていた方です。休暇のほとんどを使って日本中のスミレを探し歩き、「原色日本のスミレ」という大冊を残しました。…(中略)…
 フギレオオバキスミレという北海道特産の黄色いスミレがありますが、この花が見たくて、大胆にも浜先生に手紙を差し上げました。図鑑に、余市や然別という地名を見つけたからです。数日後、速達で達筆の封書が届きました。中には、当時発見した場所の地図まで入っていたのです。先生が発見された当時の、二十年以上も前の地図ですから、当然風景は大きく様変わりをしていますが、道や川のうねりは変わりません。竹やぶをかきわけて、地図と寸分違わない場所で、憧れのフギレオオバキスミレを見つけた時(既に葉だけでしたが…)の驚きは筆舌に尽くしがたいものがありました。…(中略)…
 昔の手紙を手がかりに、久しぶりにお手紙を差し上げました。先生は、学校を退官後は、日本の中でもスミレの宝庫といわれる長野県諏訪に移られていました。数日して、返事が届きました。しかし、見慣れた達筆の筆字ではありません。中には、先生が五年前に亡くなられたこと、復刻版には、その後先生が記された新たな種が増補として加えられることなどが書かれていました。…(中略)…
 今年も、スミレの季節がやってきました。しばらく遠のいていましたが、今年は浜先生に教えていただいた然別のフギレオオバキスミレに会いにいくつもりです。先生が最初に出向いたときから三十五年以上の年月が経過しています。それでも、きっと、その時と同じ清楚さで、黄色い花を咲かせていてくれるに違いありません。」

 これは小松さんが勤務先の学習塾の通信に連載しているコラムの一文でした。(現在は更新されてもはや見ることは出来ません)
私はインターネットの画面を食い入るように見つめました。私もまた「原色日本のスミレ」に書かれた地名を元に、浜栄助氏はいったいどこで見つけたのだろうと、何度も探しまわった一人だったからです。
 小松さんは浜先生に直接教えを乞い、笹薮を漕いであこがれの花と対面。それから15年の月日が流れ、亡き先生を偲んでフギレオオバキスミレに会いに行こうとしているのです。
 私は深いため息をつきました。人と人とが花を通じて結びあい、片方が亡くなってもその花の場所に静かに佇むことで再び心を通わせることが出来る。一つの場所というものが大切な意味を持つこともあるんだと言うことを再認識させられた思いでした。

 そして今年2006年。その小松皓一さんから突然のメールをいただきました。
それはご自身が発見した白花フギレオオバキスミレの群生地の環境がこの15年間に悪化し、乾燥化やクマザサの進出で消滅の危機が迫っていること。保護のための意見が欲しいというものでした。
 私は驚きあわてました。そのような大事に私のようなものがと悩みましたが、あまり返事を遅らす訳にもゆかないので、
「私は野生植物の移植は基本的には反対です、この際保護の専門家に相談されるのがベストの方策かと思います。」とお答えするくらいしか出来ませんでした。
 小松さんは、春が巡ってくる度に自生地を訪れ、笹狩りをするなどして様子を見守り続けていたのでした。
春はまた蝶の季節でもあります。ヒメギフチョウの舞うスポットで小松さんとお会いすることが出来ました。想い描いていた通りの落ち着いた優しい方でした。

 メールの往復が続いていたある日のことです。小松さんから「大発見」というタイトルの驚くべき内容のメールがもたらされたのです。
「…(前略)… 
 ギフチョウを追っていると
 上のほうになにやらクリーム色の群落が…。
 何と、シロバナの大群落でした!
 発見場所のものよりややクリームがかってはいますが
 黄色の色素が非常に弱い個体群です。
 遠目にはニリンソウにしか見えず、最初は全く気にも
 止めていませんでした。

 ご覧になりますか?
 花は来週までは持つと思います。
 …(後略)…」

 何と前回とは1Kmほど離れた別の場所で新たな白花フギレオオバキスミレの群落を発見したというのです。

 黄色いスミレは一般に、その黄色い色素が抜けにくく白花が現れることはとても珍しいとされています。場所が近いので何らかの関係があるのでしょうが、前回発見のものとは色素の抜け方の異なる全く違う群落です。それを同じ人が偶然見つけたというのですから、ほとんど奇跡のような出来事でしょう。

  私は翌日、仕事があるにもかかわらず、朝暗い内に起きて、教えていただいた場所へと駆け付けました。しかし、何も標識などない野外の特定の場所を探すのは難しいことです。わたしにはニリンソウしか発見できませんでした。

 結局今年は花の時期に訪れることが出来ませんでした。小松さんは私を不憫に思い、ご自身が現地を案内して下さると言われます。来春の白い群落の輝きを楽しみに待つことにいたしました。




1991年発見の白花フギレオオバキスミレ

 2006年発見の白花フギレオオバキスミレ

 黄色ばかりのホームページに白い彩りを添えてはという小松さんのお勧めに従ってこのページを作りました。写真もすべて小松さんが撮られたものです。この場を借りて小松皓一さんに厚く御礼申し上げます。



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