その26 2007.12.27

フギレオオバキスミレ文献逍遥

  草花が勢いよく地面から湧き立ち、樹木の若葉がいっせいに萌えだすスミレの季節とは、今はちょうど正反対。木々の葉っぱはみな地面に落ち、それさえも白一色に覆われる季節になりました。どんよりと曇った空、寒くてなるべく外に出たくはありません。こんな季節には本の山に遊び、文献の野を逍遥するといたしましょう。文献探訪というわけです。

 「探訪記 その2」でフギレオオバキスミレの学名についてこんなことを書きました。
 「フギレオオバキスミレは葉に不規則な切れ込みがある、オオバキスミレの変種で、北海道だけに生育します。フランス人のフォーリー神父が採集したものに1900年スイスの植物学者ボワジェが最初の学名を付けました。」
 採集地は狩場山らしいということは分かっていたのですが、その当時それ以上の詳細については知りませんでした。フォーリー神父とフギレオオバキスミレとのつながりをもう少したどってみたいと思いました。この一月ばかり、またいつもの知りたい病が出て来てしまったのです。

 以前から私はCiNiiという国立情報学研究所の論文ナビゲータサイトで文献を探しては、PDF化された論文そのものを、画面の上で直接見たり、印刷して読んだりしていました。

 CiNiiでは11月末のデータですが、植物関係の文献が10万件以上ヒットし、そのうち約7万2千件に本文があり、その中のかなりの件数の論文を無料で読むことが出来ます。「インターネットは貧者の味方!」という題名の本も出ているくらいですが、この無料で読むことが出来る、インターネットのブラウジングの延長線上に電子図書館があるということが、私にとってはとてもうれしいことです。
 情報をインターネットで誰にでも無料で利用可能にするという概念のことをオープンアクセスと言うそうですが、その流れがここ数年ものすごい勢いで強くなっています。公開を制限する期間が短くなり、次々と新しいタイトルがアーカイブに蓄積されつつあります。
 今の若い人たちは良い時代に生まれました。これからは勉強しようという意志さえあれば、いくらでもほとんど無限に教材が眼前に現れるのですから。私と同じくそろそろ初老の域に入られた方でも、これからの生涯学習の題材に事欠く心配はありません。

 このCiNiiのサイトでは「現在271の学協会から許諾を得て、紙媒体の学協会誌約1,000タイトルに掲載された約280万件の論文本文をNII-ELSとしてPDF化しています」とあります。これはもちろんすさまじいボリュームではありますが、残念ながら、全国の大学や学校などの紀要、博物館の研究報告、地方で出版された学術雑誌などはほとんど含まれておりません。
 しかしこのところ、各大学などでは機関リポジトリと称して、紀要、研究報告、博士論文などを独自に無料でインターネットに公開する動きが盛んになっています。
 Wikipediaによると「機関リポジトリとは,大学など学術機関が自機関で生産された知的生産物を収集し,保存し,配信するためのデジタル・アーカイブのことである。」とあります。
 例えば、北海道大学図書館はHUSCUPという愛称をつけた機関リポジトリを公開していて、2007年10月現在2万件を超える論文が収録されているそうです。私はそこで今から60年や70年前に書かれた工藤祐舜博士や舘脇操博士の論文を見つけて大いに感激しました。

 前出の国立情報学研究所では全国45の機関リポジトリ(2007年11月末現在)をまとめたポータルサイトJunniiも試験運用しています。
 さて前置きが長くなりましたが、そろそろ本題へ入ります。

 以前「探訪記 その18」で講談社の「FLORA OF JAPAN」を紹介しました。

 実物を見るのに図書館の方にご面倒をおかけしましたが、なんとそれが現在では日本植物分類学会のホームページからデータベースとして公開されているのです。ためしにスミレ属Violaで検索してみます。日本のスミレが全部画面に出てきます。データベースの形式を採っていますので、実際の本と見た目は少し違っているのですが、内容は表示不能文字が書き換えられている以外ほとんど違いがありません。

 そのなかのフギレオオバキスミレの部分を以下に引用します。
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 科名 VIOLACEAE
 属名 Viola
 種小名 brevistipulata
 基準異名命名者 Franch. et Sav.
 命名者 W. Becker
 種内分類ランク var.
 種内分類群名 laciniata
 基礎異名命名者 H. Boissieu
 命名者 W. Becker
 原記載 Beih. Bot. Centralbl. Abt. 2, 34: 266 (1916).
 シノニム Viola uniflora L. var. laciniata H. Boissieu in Bull. Soc. Bot. France 47: 323 (1900). Viola laciniata (H. Boissieu) Koidz. in Acta Phytotax. Geobot. 7: 113 (1938). Viola brevistipulata (Franch. et Sav.) W. Becker f. laciniata (H. Boissieu) F. Maek. in H. Hara, Enum. Sperm. Jap. 3: 198 (1954). [Viola yamamotoi Koidz. ex Yamam. ex Honda, Nom. Pl. Jap.: 230 (1939), nom. nud.]
 和名(ローマ字) Fugire-{o~}ba-ki-sumire.
 和名 フギレオオバキスミレ.
 記載 Blade of leaves incised.
 染色体数
 分布(国内) SW. Hokkaido.
 生息環境
 分布(世界) Endemic to Japan.
 図版 Inami, Ill. Violets Jap.: t. 5 (1966); Satake et al., Herb. Pl. 2: photo. 232 3; Igari, Wild Violets Jap.: 18 & 19 (1996); Tabuchi, Handb. Jap. Violets: photo. 30AA (1996).
 備考
 著者 S. Akiyama, H. Ohba and S. Tabuchi
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 いがりまさしさんの「増補改訂 日本のスミレ」(2004年)の学名索引を見ますと、フギレオオバキスミレの学名はViola brevistipulata (Fr. et Sav.) W. Becker var. laciniata (H. Boiss.) W. Becker となっています(p.282)。これは上記の引用の2行目から8行目までと同内容になっています。
 ちなみにbrevistipulataとは「托葉の短い」、laciniataとは「細分裂した」という意味だそうです。
この学名には4人の命名者の名前が含まれています。以下がそれらの人々です。

 Sav.はP. A. L. Savatier(サヴァチェ 1830〜1891)で1866年に幕府の横須賀製鉄所の医師として来日したフランス人。Franch.はA. R. Franchet(フランシェ 1834〜1900)でパリの自然史博物館の随員で主に中国の植物を研究していた人です。フランシェは1877年、サヴァチェが加賀の白山で採集して送ったオオバキスミレの標本を元にViola pubescens var. brevistipulataという名前を発表しました。Viola pubescensは北アメリカ東部に広く分布する黄色いスミレで、フランシェは日本のオオバキスミレはこれと同じ種類の托葉の短い変種だとしたのです。
 Googleイメージ検索でそのスミレを見ますとなるほど良く似ています。

 W. Becker(ベッカー 1874〜1928)はドイツの人で教職のかたわら世界のスミレを研究し、1916年に「Beihefte zum Botanischen Centralblatt 34」に「Violae Asiaticae et Australenses(アジアとオーストラリアのスミレ属)」を発表し、そのなかで日本のオオバキスミレは独立の種であるとしてViola brevistipulataという学名を付けました。これが今日まで世界中の学者に認められて採用されている学名です。

 H. Boissieu(ボアジェ 1871〜1912 )はスイスの人。「Bulletin de la Societe Botanique de France 47」(1900年)にフォーリー神父の送った標本を元に、フギレオオバキスミレを初めて斯界に発表し、Viola uniflora L. var. laciniataという学名を与えました。Viola unifloraはシベリアに分布する黄スミレで日本ではシベリアキスミレと呼ばれています。このスミレもロシアの人の写真などを見ますとオオバキスミレに良く似ています。ボアジェはフギレオオバキスミレはそのスミレの葉の細分裂した変種であるとしたのです。しかしその16年後にはベッカーがViola unifloraの変種ではなくてViola brevistipulataの変種であると学名を組み替え、最初につけられた学名はシノニム(異名)となったわけです。

 フォーリー神父がいつどこで採集したのか知りたいと思い、あれこれCiNiiなどを調べていましたが、ふと日本でこれだけオープンアクセスが盛んになっているのだったら、世界的にはもっと進んでいるのではないかと思い、幾晩もマウスをクリックし続けました。そうしたら突然、「Bulletin de la Societe Botanique de France」が画面に現れ、ボアジェの1900年の論文「Liste de Localitees et Especes nouvelles pour le Flore du Japon」そのものも出て来ました。その323ページに、フォリー神父の採集になるそのスミレは新変種として発表されていました。タイプ標本は以下の二つ。
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    2226, Mashike ; juillet 1892 ( Herb. Mus. et Drake )
    2272, Karibasan ; juillet 1892 ( Herb. Mus. et Drake )
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 1892年7月、増毛・狩場山の採集品でドュレイク植物標本室に収められているということが分かったのです。一人パソコンの前で驚き、感激しました。

 フォーリー神父(U. Faurie 1847〜1915)に関する文献はどうでしょうか。それはCiNiiで見つかりました。
木梨延太郎「日本植物大採集家 URBAIN FAURIE 師」(1932年)、北川尚史「Urbain FAURIE に関する文献」(1979年)、などいくつかの論文が読めますが、私の疑問にぴったりなのが、角田充「フォーリー神父植物採集年譜」(1992年)。フォーリー神父が亡くなった時に手元に残していた6万点余の重複標本類は一人の篤志家によって遺族から購入され京都大学に寄贈されました。その植物標本のほとんどを調べ神父の足跡を跡づけた労作です。
 そのなかに、まさに1892年(明治25年)7月10〜11日に狩場山、7月23〜24日に増毛とあります。増毛はその前年の7月にも訪れていますが、他の資料を当たっても、増毛・狩場山の記録はそれ以外にありませんので、ボアジェのフギレオオバキスミレは1892年のその二つの採集行のときのものと見て間違いないでしょう。
 京都大学にもそのとき一緒に採った重複標本が収蔵されているはずです。京都大学では標本庫の植物データベースを公開していますが、残念ながらそれは一部に留まり、パソコンで見ることは出来ませんでした。

 フォーリー神父は、明治16年、37歳の時に青森県と北海道の巡回牧師となり、その仕事の傍ら精力的に各地の植物を採集しました。その標本を本国の博物館などの研究者に送り、その報酬を布教や慈善事業にあてていたのです。
 明治25年の狩場山採集行(それもどうやら山中で一泊しているらしい)とはいったいどのようなものだったのでしょう。北川尚史氏の論文にあるように「わずかな装備をたずさえて山中に入り、夜は樹上や岩隙で露営した…」のでしょうか。

 フギレオオバキスミレに関連する文献として1961年の渡邊定元「オオバキスミレとエゾキスミレの一群」があります。この論文もCiNiiのPDFで見ることが出来ます。(この論文の複写を入手したときの感激も今は昔となってしまいました。)このなかに以下のように書いてあります。
 「フギレオオバキスミレ(小泉1938)は後志国を中心とした分布域を持ち(第2図)、オオバキスミレと混生せず、分布域の接する胆振国鷲別岳では、高山にフギレオオバキスミレが産する。したがって地理的分布の異なった変種である。和名は従来よりフギレキスミレがもちいられていたが、これは中井博士が北大標本庫の石狩国芦別岳産の標本にもとずいて命名したものであり、芦別岳の個体は葉形が異なり、エゾキスミレの一型(第1図)であるから、var. laciniata の和名として採用することはできない。京大標本庫のFaurie の採集品(No. 2272)は後志国狩場山(10 Juille, 1872)で小泉教授の後志国然別産の個体もこれと同型であるから、和名にはフギレオオバキスミレを採用する。」

 1872年が1892年の誤植だとするとボアジェの論文の内容とぴたり一致します(もう一つの基準標本産地、増毛では重複標本を採らなかった?)。
 この文章の中で、ちょっと戸惑うようなことが書かれています。「和名は従来よりフギレキスミレがもちいられていたが、これは中井博士が北大標本庫の石狩国芦別岳産の標本にもとずいて命名した」とあります。これは「植物学雑誌 423号」(1922年)に書かれた東京大学中井猛之進博士の「すみれ雑記(其一)」のことです。
 「北海道の高山(芦別岳)に葉の欠刻深き変種がある。var. laciniata, W. Beckerと云う。フギレキスミレと新称す。(筆者注:旧漢字、旧かなづかいを、常用漢字と現代かなづかいにあらためました。)」
 つまり渡邊定元氏が1961年の論文を書くまでは、北海道各地の葉に欠刻のあるキスミレは、和名がフギレキスミレと呼ばれて来たらしいのです。
 「小泉教授の後志国然別産の個体もこれと同型であるから、和名にはフギレオオバキスミレを採用する。」とはどういうことでしょうか。
 「植物分類, 地理 7(2)」1938年に掲載された京都大学小泉源一博士の論文「Contributiones ad Cognitioem Florae Asiae Orientalis 東亜植物考察(承前)」。これもCiNiiにPDFがあります。その中で以下のように発表しているのです。
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  Viola (Chamaemelanium) laciniata (Boiss.) Koidz. nom. nov.
  Nom. Jap. Hugire-ohbakisumire
  Hab.  Japonia : Yezo, prov. Shiribeshi, mt. Shikaribetsudake
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 つまり新学名としてキスミレ節のViola laciniata、和名はフギレオオバキスミレ、産地は後志の然別岳とあります。シノニムとしてViola uniflora var. laciniataとViola brevistipulata var. laciniataの二つが挙げられています。
 小泉源一博士はそれまでフギレキスミレと呼ばれて来たものを種に格上げしてViola laciniata とし、フギレオオバキスミレという新しい和名をつけたわけです。ここで初めてフギレオオバキスミレという名前が出現します。
 然別岳とは然別山(466.5m)あるいは単に然別の山中という事だと思われますが、これを採集して小泉博士に送ったのは然別にほど近い余市町在住の山本岩亀という人です。
 
 小泉博士が1938年にフギレオオバキスミレという和名をつけたのに、1961年の渡邊論文まではその名前が使われていなかったというのでしょうか。その謎を解くためには、いましばらくその間のスミレに関する著作を跡づける必要がありそうです。

 1953年に科学博物館の大井次三郎博士が「日本植物誌」を出版しました。これは日本の全顕花植物の検索表、各種類の記載を伴った大册です。この本はその後も改訂を重ね、書名も「新日本植物誌 顕花編」(1983年)となって、現在でも日本の植物誌の基本的な文献として重きを置かれています。博士はオオバキスミレの記載の中で、「葉の不整缺刻牙歯あるものを var. laciniata W. Becker ― V. laciniata (W. Becker) Koidz. フギレスミレと云ふ。」としました。ここでは新たにフギレスミレという名前が登場しました。この和名はちょっと不思議です。私はもしかして誤植ではないかと思い、1961年の第4版まで調べてみましたが、いづれも「キ」の抜けたフギレスミレでした。1965年の「日本植物誌 顕花編 改訂新版」から後はフギレオオバキスミレと変わっています。どのような経緯でフギレスミレという名前がつけられたのか不明です。

 1954年には東京大学原寛博士の「日本種子植物集覧」第3冊「Enumeratio Spermatophytarum Japonicarum III」が出版されました。この本の中で東京大学前川文夫博士はスミレ科を担当し、33ページに亘るリストをまとめました。これは「日本植物誌」とは違って、学名とその異名、それに和名と分布を付したリストです。そのなかの198ページで、フギレオオバキスミレはオオバキスミレの品種に格下げされ、f. laciniata (Boiss.) F. Maekawaという新しい学名をつけられました。これが「FLORA OF JAPAN」に書かれているシノニムの3番目です。
 この新学名に続けて、それ以前に発表された異名が羅列されています。その中には小泉博士のViola laciniataも、前年の大井博士のvar. laciniataも含まれています。和名としては中井博士の命名したフギレキスミレを採用し、小泉博士のフギレオオバキスミレは別名とされました。
 どうやらこのあたりにフギレキスミレが定着したルーツがありそうです(この本の索引もフギレスミレとなっているのはどうしたことでしょう)。

 ところでこの前川博士の異名リストの最後に次のような一行があります。
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  V. Yamamotoi Koidzumi ex Yamamoto ex Honda, Nom. Pl. Jap. 230 (1938), nom.
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 これは1939年の本田正次「日本植物名彙」(NOMINA PLANTARUM JAPONICARUM)の230ページにある、V. Yamamotoi Koidzumiオオフギレバキスミレのことで、小泉源一博士が名付け、山本と本田の責任のもとで発表されたものであるが、記載のともなわない裸名であるという意味のようです(1938は誤植でしょうか)。山本とは先出の余市実業女学校の教頭先生山本岩亀氏(1890〜1960)のことです。宮部金吾博士の薫陶を受けて植物に目覚め、道南特に後志地方の植物相を解明するために採集と研究に没頭した北海道植物界の先達です。小泉源一京都大学教授、本田正次東京大学教授など学界の著名な先生方に標本を送るなどして交流があったものと思われます。

 山本岩亀氏の著作の一つに「後志植物誌料(一)」(1935年)があります。そのなかに
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  Viola laciniata Koidz. in litt. フギレバキスミレ(小泉)
  Viola Yamamotoi Koidz. sp. nov. in litt. オオフギレバキスミレ(小泉)
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とあります。
 私の半可通な解釈なのですが、標本送付に対する小泉博士からの返信に、通常のものをフギレバキスミレとし、大型のものを別種オオフギレバキスミレとして後に正式に発表するという表明があったものと思われます。しかしその3年後の論文でViola laciniataフギレオオバキスミレだけが発表され、山本岩亀氏の名前をとったViola Yamamotoiは日の目を見なかったのだと思います。

 このあたりの事情を調べるべく、私は小樽市博物館に足を運びました。小樽市博物館には山本岩亀氏の遺した4000点もの標本や蔵書が収蔵されています。学芸員の山本亜生さんはわざわざ私のために資料の内のスクラップブックからオオフギレバキスミレのことが書かれた新聞記事を見つけておいて下さいました。
 「道南地方の高山植物類」と題した山本岩亀氏の署名記事です。
「宮部先生の卓見によって北海道は、植物分布学の上から、南北海道と、北北海道の二部に分けられた。道南地方(渡島、後志、胆振)の植物を精査することは、南北海道の限界を定むるための、重要な一方法である、…」という書き出しで始まる、現在の新聞ではほとんどお目にかかることの出来ないような格調高い文章です。そのなかに以下の文がありました。「一、オホフギレバキスミレ、拉丁名をヴイオラ・ヤマモトイといひ私が然別附近で発見した黄色のすみれである、然別附近にはこの他にフギレキスミレといふ種類も産するが、オホフギレバキスミレは形も大きく、葉の切れ込みも大きくあらく、かつ花が頗る大型で花弁内の突起が著しい、京大の小泉博士の命名である。」
 短い時間の調査ではありましたが、やはり小泉博士による正式発表を伺わせるような資料は見当たりませんでした。またViola Yamamotoiとラベルに書かれた標本も6点ほどありましたが、私にはvar. laciniataと書かれた標本とさほど違いがあるとは思えませんでした。
 前川博士の異名リストの最後の一行は「FLORA OF JAPAN」のシノニムの最後の一行でもあります。

 ここまで「FLORA OF JAPAN」のフギレオオバキスミレの項に掲げられた文献を中心として、あちらこちらと寄り道しながら探訪を続けてきましたが、心残りなのはW. Beckerによる原記載が書かれている Beih. Bot. Centralbl. Abt. 2, 34: 266 (1916). をまだ見ていないことです。ドイツ語のサイトをやみくもにクリックしてみましたがどうがんばっても出てきません。あきらめて北海道立図書館参考調査課にお願いしました。そうしたら岡山大学附属図書館資源生物科学研究所分館にその文献が在り、一般の人の複写依頼にも応じて下さると教えてくれました。
 もう毒喰わば皿までの境地です。数日後どさっと送られてきました。
 「Violae Asiaticae et Australenses」の266ページに
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  var. laciniata W. Bckr. var. nov.
  Exs. : Faurie Pl. Jap. nr. 8272: Karibasan.
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とありました( 8272は2272の誤植でしょう)。ここでもフォーリー神父の狩場山です。

 狩場山は、私が黄金山でフギレオオバキスミレに心引かれてから最初にその花を探して訪れた山でした。

 私が狩場山に登った1992年7月12日が、フォーリー師がフギレオオバキスミレを採集した日からちょうど100年目にあたっていたとは今回初めて知りました。


1992.7.12 狩場山にて by H. Terada   


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